だいだらボッチの激安おでかけバンザイ

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奇跡の船「宗谷」は現在船の科学館で無料内覧見学

宗谷の乗船は無料ですが船体の修理・保存の為の任意の助成金を募っております

「船の科学館」の記事はこちら

船の科学館の横に係留展示している初代南極観測船「宗谷」は奇跡の船と呼ばれていますが、元々は南極観測船として開発された船では無かったのです。
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当初の発注元はソ連で耐氷型貨物船として建造され、船名もロシア語で「ボロチャエベツ」の予定でした、しかし日中戦争の長期化によりソ連に引き渡されず民間船会社の貨物船「地領丸」としてその船歴をスタートします。
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太平洋戦争が始まり海軍に買い上げられ船名が「宗谷」に変更、特務艦として多岐にわたる任務に従事、戦中僚船のほとんどが海に沈められましたが宗谷は生き残りました。
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終戦後は戦地や大陸からの帰還者を運ぶ引き揚げ船として活躍、その後改装工事を施され海上保安庁の灯台補給船となり、老朽船として引退間近に初代南極観測船に抜擢され計6回の南極航海を勤め上げたのです。
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1955年(昭和30)「国際地球観測年」での南極計画に日本も参加を希望しました、しかし第二次世界大戦の敗戦の影響で、日本は国際舞台にあがる資格が無いと複数の国から反対されますが、最終的にアメリカ・ソ連の大国が日本支持に回り参加が認められました。
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南極で日本に割り当てられた場所は最終補給基地のオーストラリア・南アフリカいずれからも遠く、地形や氷状からアメリカ海軍をもってして「接岸不可能」と言わしめた難所のプリンスハラルド海岸、日本は地球上で最も危険な海域への航海に建造18年の非力な老朽船を使用したのです。
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国に費用が無かった事もありますが、南極行きの決め手となったのが「船運」があり宗谷の持つ強運に南極観測の運命を託したのかも知れません。
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戦時中も周りの艦船が大きな被害を受けているのに宗谷だけは損害が軽微、アメリカ潜水艦から魚雷を数発撃ち込まれる事もありましたが不発弾であったり、回避行動中に座礁して機銃掃射を浴び無人で放置されましたが、満潮時に自然脱出し漂流している所を乗員が飛び乗って日本へ無事帰還と奇跡のエピソードには事欠かない宗谷。
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南極の厳しい条件に耐えうるように大改造を短期間に完了しなければならず、工事を引き受けた横浜の浅野ドックは昼夜兼行で7ヶ月に及ぶ作業の後に引き渡され東京に回航。
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南極へ渡る船と観測員に民間企業もその技術を惜しまずに協力し、極寒の中オイルが凍らない風力発電機を本田技研工業が、寒冷地に適した小型受信機を東京通信工業(後のソニー)が無料で提供。
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極寒の地での住居作りは釘などは使えず、日本古来の木組を組み合わせた組み立て式の建材は竹中工務店が製造し、その他南極観測隊に物資を提供した会社1000社を超えました。
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南極観測船「宗谷」が第1次観測隊を乗せて、東京湾晴海埠頭から南極まで2万キロの航海に旅立ったのは1956年(昭和31)11月8日。当時はまだ敗戦の影響で国全体が貧しかった時代、それだけに南極計画を復興のきっかけにしたいという国民の希望は大きかった事でしょう。
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船体はオレンジに塗られ巡視船を示す「PL-107」のナンバーが船首に書き込まれました。
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宗谷は南極で氷を割って進むためにビルジキール(ヒレ)を外した影響で非常に横揺れの激しい船になり、フィリピン西方洋上で台風に遭遇し横揺れが38度に達し、ケープタウン沖の暴風圏に入った時には最大62度まで傾いたそうです。
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翌1957年1月16日南極圏に突入、プリンスオラフ海岸側より南極大陸を目指し流氷の中の大きな海水面を進みチャージングを繰り返しながら氷を割り続けました。
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この年は南風が多く天候にも恵まれ宗谷は順調に進み1月24日南緯69度・東経39度のオングル島に接岸、宗谷はまたしても奇跡を起こしたのです。
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観測隊はオングル島に上陸し「昭和基地」と命名、このニュースはすぐさま日本で報道され日本中が歓喜に湧きました。
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当初はこの年は予備観測年で越冬する計画はなく基地を設置する場所を決める予定だけでした。
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しかし南極観測隊参加を決めた西堀栄三郎は予備観測年での越冬を強く主張、永田観測隊隊長の判断で越冬が決定。
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宗谷は西堀越冬隊長以下越冬隊員11名を残し来年の再会を約束して日本へ帰還
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帰りの南極圏は吹雪が激しく宗谷は流氷の中に閉じ込められてしまいます、海上保安庁は外務省を通じてアメリカ・ソ連に宗谷の救援を依頼、宗谷は外洋まであと10kmほどの地点まで来ており、そこにソ連の砕氷船「オビ号」が駆けつけ流氷を砕き宗谷を外洋まで誘導、乗員たちはオビ号に感謝の意を伝え南極圏を脱出しました。
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4月25日宗谷は海鷹丸と共に日の出桟橋に帰港
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その後第六次観測まで南極に赴き観測船としての役目を終了、その後は北海道で巡視船として海難救助や冬期の北洋における医療活動に従事。救助船125隻、救助人数は1000名にも及び「北の海の守り神」と呼ばれるほどの活躍をします。
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ようやく引退したのは1978年(昭和53)これほど働き者の船はおそらく前例が無い事でしょう、宗谷に関わった人達は皆「健気な船だ」と言っております。
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南極観測船「宗谷」
住所:東京都品川区東八潮3-1青海北ふ頭公園
電話:03-5500-1111
H.P.:https://funenokagakukan.or.jp/soya
営業時間:10時00分~16時45分
定休日:月曜日