神戸の港から船に乗って上京し(自宅アパートは埼玉県)青春を日雇い仕事に捧げた「コウモリ(あだ名)」も40代になってしまいました。
横浜の山下公園に停泊中の氷川丸は国の重要文化財に指定されており、博物館船として一般公開されている見学料金はたった300円、船内は見どころいっぱいでコウモリも20年前の希望に満ちた船旅を思い出す事でしょう。
〈目次〉
氷川丸の歴史はシアトル航路から
氷川丸は戦前に日本郵船が北米シアトル航路に投入した大型貨客船で船名は氷川神社(さいたま市)に由来。
料金300円は船内で支払います
日本郵船がシアトル航路を開設したのは1896年(明治29)当時の重要な輸出品だった生糸をアメリカ東部や経済の中心地ニューヨークに運ぶことが大きな目的で、グレート・ノーザン鉄道との提携により横浜・ニューヨーク間を結ぶ輸送ルートができました。 シアトル航路はサンフランシスコ航路に比べニューヨークに1日ほど早く生糸を届けることができる重要航路でした。
氷川丸は神戸を出ると国内各地で船客や荷物を乗せて横浜に入港します、横浜港からは一路シアトルに向け太平洋を渡る13日間の航海が始まります。
シアトル航路用の貨客船として1930年(昭和5)に竣工した「氷川丸」は当時としては最新鋭の大型ディーゼル機関を搭載、またアール・デコ様式の美しい内装を施した豪華客船として注目を集めました。
日本を観光で訪れていたチャールズ・チャップリンが1932年(昭和7)年6月2日横浜から氷川丸に乗船して帰国の途に着いたほどの超豪華客船。
写真引用先:日本郵船歴史博物館『まるごと氷川丸展』 大人の社会科見学 【ひろたみゆ紀・空を仰いで】 – ニッポン放送 NEWS ONLINE
ですが1939年(昭和14)に第二次世界大戦が勃発、戦局の拡大とともに遠洋航路は次々と休航に追い込まれシアトル航路も同年8月に休止、その後国交悪化の影響で引揚船として往航は日本在留の外国人、復航では海外在留の日本人を乗せ横浜~シアトル間を往復。
1941年(昭和16)年に戦地の病院から戦傷病者を収容して日本へ戻す特設病院船に改装。
写真引用先:日本郵船氷川丸|氷川丸の歴史
1945年(昭和20)舞鶴で終戦を迎えた氷川丸は病院船のまま復員輸送にあたります。救出に向かった先は主に南方の島々で、輸送した復員兵は2万人近くに達し、その後一般邦人の引き揚げ輸送の任務に。
GHQ占領下には北海道航路、その後東南アジアからの米輸送の任務に就き、ようやく氷川丸は1951(昭和26)年3月より約2ヶ月半をかけて大改装を行って戦前の貨客船時代の姿を取り戻してシアトル定期航路に復活しました。
氷川丸の老朽化に加えて飛行機の普及や積荷の激減から1960年(昭和35)年に引退が決定、シアトル定期客船サービスも氷川丸の引退によって歴史の幕を閉じました。
コウモリの経歴
20年ほど変わらぬ作業を繰り返し続け日雇い先の社員からは「ウチ来て長いんだからもっとテキパキ動け!」と手厳しい言葉(>_<)
氷川丸見学所要時間はだいだい小1時間
1961年(昭和36)改装を終えた氷川丸は宿泊施設として再スタート修学旅行生を主とした宿泊業務は1973年(昭和48)まで続き、その後戦前の写真や資料を基に船内は竣工当時の姿に近い形に復原され、2008年(平成20)年4月25日に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンしました。
見どころはやっぱり当時の面影を残したセレブ感溢れる社交場や客室
オレもこんな部屋で泊まって東京に来たと見栄を張る事でしょう
更に上級グレードの一等特別室がある事を知って悔しがるコウモリ
コロナ禍以後見学コースがショートカットになったみたく現在三等客室は見る事が出来なくてガッカリ…かつてはここでふてくされて寝るコウモリを妄想していたものです。
機関室も下階まで降りれなくなってしまいました
ですがコウモリが海に向かって口笛を吹いていそうなデッキは健在(`3´)ピー
コウモリは食べ終えた弁当の空容器を周りに人がいなければ川に投げ捨てる悪い癖があるので食事はきちんと食堂で食べなければいけません。
食後は社交場でB'zやドリカムを聴いて
自分もスターになった姿を妄想するのです
コウモリは本でも読んで己の器をよく認識するべきなのでしょう
職場では失敗ばかりいるので機械には触らせて貰えません
「オレはもっとハイテクで未来感溢れる機械しか相手にしない」と嘘ぶくコウモリ
「オレはガンダムのパイロットだ(・д・)」