日雇いバイト最高齢の「シーラカンス爺さん(あだ名)」は1943年(昭和18)8月15日生まれ、太平洋戦争で日本が降伏した終戦記念日のちょうど2年前。幼い頃の思い出は母親に抱きかかえられ防空壕に入る直前、空から赤い光が見えたと語るシーラカンス爺さんですが
「2歳の頃の事なんて覚えている訳ナイだろ!」(`Д´)ノ
そんなシーラカンス爺さんを思い出しながら向かった先は、太平洋戦争とは切っても切り離せない場所である「靖国神社」。敗戦した我が国を憂いた作家の三島由紀夫さんと爺さんが重なり合って見えて仕方ありません。
〈目次〉
靖国神社参拝の前に中門鳥居前を右に曲がって遊就館へ
太平洋戦争での戦没者を祀っているイメージの強い靖国神社ですが、元々は1868年(明治元)の新政府軍と旧幕府軍の内戦「戊辰戦争」で亡くなった人々を祀るために創建されました、当初は東京招魂社の名称でしたが1877年(明治10)に靖国神社に改名。
第一鳥居を進んで行けば戊辰戦争時に新政府軍の実質的司令官、そして戦後は戦死者を慰霊する東京招魂社の建立に関わった「大村益次郎」の銅像。
銅像の横にある「慰霊之泉」は戦没した方々へ喉の渇きをいやす水と慈愛に満ちた母親を抽象的に表現したモニュメント。
戦後に高度成長期を迎え、会社の慰安旅行でコンパニオンにお触りしてばかりだったシーラカンス爺さんの事を思うと、ベンチに座り平和について考えてしまいます。
昭和時代の光と影を走り抜けていった爺さんは令和の時代になっても元気に日雇い、一方ヘタレ中年の僕は今日も日雇い仕事はお休みで、靖国神社でも第二鳥居前の休憩所で一休み。
特攻の母とか一瞬怯んでしまうメニューがありますが、鹿児島で陸軍指定だった富屋食堂の店主「鳥濱トメ」さんをリスペクトした玉子丼。
かつて生き残ってしまった特攻兵にトメさんはこう語りかけたそうです「なぜ生きのこったのか考えなさい、何かあなたにしなければならない事があって生かされたのだから」
生かされた日雇い爺さんも花粉症で大変な社員に向かってこう語りかけておりました「天気が良いんだから外に出なきゃダメだよ(゚Д゚)」
靖国という名前は明治天皇の命名によるもので平和な国家を建設するという願いが込められているのです
そんな想いを更に深く知るには参拝前に中門鳥居の右手にある、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している「遊就館」に立ち寄る事をオススメします。
1882年(明治15)靖国神社境内に神霊を慰安する目的で開館した遊就館は、その後関東大震災で被災し昭和6年に再建したのが現在の建物。
本館改修と新館増築の工事により2002年(平成14)に再公開した建物は、格式がありながらもハイテクさを兼ね備えた資料館なのです。
遊就館入口に展示してある零戦は最も多く生産された52型
入場料は1000円(入口付近の展示物を見学して売店に立ち寄るだけなら無料)
このエリアの一番人気はやはり三菱零式鑑上戦闘機(ゼロ戦)、意外と多い外国人観光客の皆さんは「ジェロ」と言っております【Zero】の発音はゼロではなくジェロがグローバルスタンダードなのでしょう。。
ゼロ戦が初めて日本海軍に正式に採用されたのは皇紀2600年の昭和15年、海軍は採用した年の下2桁を航空機の名称とする慣例で零式艦上戦闘機と命名。開発当初に海軍から三菱の堀越二郎技師に要請した零戦は、長大な航続距離と敏捷な旋回性能を持ちながらも重武装という(当時の日本では)とてつもなく無茶な要求でした。
そんな要求に対して堀越技師が開発した機体は航続距離を稼ぎ出すために重量を極限まで軽量化、防弾性能もゼロに等しく敵の銃弾が主翼をかすめただけでも炎上し背後を取られたら撃墜確実の極端スペック機体。
大戦当初のアメリカ軍は「ゼロと低気圧で遭遇をした場合は命令に反してでも逃げて良い」という通達があった逸話も残しています。
しかし零戦は垂直方向(上昇・降下)の荷重に耐えられない機体であった為、戦闘中でも急降下による攻撃や離脱が出来なく徐々に敵軍から対策を練られてしまいます。
当時、日本の兵器開発思想に対して、アメリカ軍が最も大事にしたものは、パイロットの命でした。それは決して安っぽいヒューマニズムや人情などという非合理的な思想の結果ではなく、国家同士の全面戦争において、兵器は簡単に得られるが熟練パイロットは一朝一夕には得られないという結論に達していた米軍にとって極めて合理的な帰結であり、敵の攻撃の1回や2回で熟練パイロットが死ぬのは割にあわないと考えたことに因るものです。
引用先:ゼロ戦はなぜ世界最強と呼ばれたのか | ミリタリーショップ レプマート
戦火を潜り抜けたシーラカンス爺さんの大砲は未だ健在
お触りしながら蒸気機関車ばりに大型ボイラーを膨らませ「ガッハッハー」そして外国人観光客に向かって「ジェロでは無くてゼロだよ!」と余計な事ばかり言う島国根性全開の爺さん。
遊就館見学の所要時間は平均60分から90分程度
展示室内は全て撮影禁止
入場チケット内のQRコードを入場ゲートに読み込ませ2階へ
見学時間は特別展の有無や見学者の興味・関心の程度によって異なり、 遊就館では60分・90分・120分のモデル見学コースを設定しております。
2階は江戸末期のペリー来航から昭和初期の支那事変(日中戦争)までの歴史を分かりやすく展示、てっきり太平洋戦争の戦没者の慰霊館との先入観がありましたが幅広く当時の使用していた保存品あり幅広く奥深い展示内容、そして室内に入る外国人観光客ジェロ軍団(勝手に命名)。
展示室1 武人のこころ
展示室2 日本の武の歴史
展示室3 明治維新
展示室4 西南戦争
展示室5 靖國神社の創祀
~特別陳列室~
展示室6 日清戦争
展示室7 日露戦争パノラマ館
展示室8 日露戦争から満洲事変
展示室9 招魂斎庭
展示室10 支那事変
じっくり見学すれば3時間オーバーは間違いなしの見応えのある施設は、途中でショートカットが出来る場所もあり、時間の無い方もしくは参拝してから再び遊就館見学(再入場館可能)の人は気兼ねなく出口へ向かう事が出来ます。
1階の大展示室は撮影が可能なエリア
1階は太平洋戦争の悲惨な歴史が主体のやや重い内容の展示で、戦没者の手記や遺品に(現在の観点ですが)無謀な戦争に踏み切ってしまった政治家や軍部の見通しの甘さに憤りを感じてしまう敗戦の歴史。
展示室11 大東亜戦争1
展示室12 大東亜戦争2
展示室13 大東亜戦争3
展示室14 大東亜戦争4
展示室15 大東亜戦争5
展示室16 靖國の神々1
展示室17 靖國の神々2
展示室18 靖國の神々3
~大展示室~
展示室19 靖國の神々4
展示室16から19にあるモノクロの戦没者写真は若くして亡くなった方ばかり、今年2023年は終戦から78年めそして爺さんは80歳。
展示室(のどこか)に掲げてあった「七生報国」の意味は何度生まれ変わったとしても国のために尽力する事ですが、もし生まれ変わりが爺さんだったら、イマイチ愛国心に欠けるお触り大好き爺さんになってしまう事でしょう(>_<)
一際目を惹くのが艦上爆撃機の「彗星11型」昭和18年に実戦に採用されましたが、戦局の悪化から爆撃機として用いられるよりも戦闘機や特攻機としてその多くが失われました。
爺さんと同い年の11型は皇紀2603年生まれだから3型の名称になる筈ですがすでに3型という名称の飛行機があったのですかね??
彗星11型を熱心に撮影する歴女のスカート丈が短くて僕も赤い彗星のシャア状態「見えるぞ私にも見える!」
風俗店のお風呂みたいな船は震洋1型で船首内に炸薬を搭載して敵鑑に体当たりする特攻挺。
「体当たりしてお触りしながらその気にさせるんだよ!」(爺本人談)
ですが敗戦と戦後を目の当たりにしているせいか「アメリカが言うのなら仕方ないよ…」と対米従属志向丸出しの爺さん。
国を守るために散っていった英霊に対して申し訳ない気持ちになり、遊就館を後にして手水舎で両手を清め拝殿へ。
もうすぐ爺さんもそちらへ逝きます (-人-)ナムナム
靖国神社 遊就館
住所:東京都千代田区九段北3-1-1
電話:03-3261-8326
H.P.:https://www.yasukuni.or.jp/yusyukan/
料金:大人1000円
営業時間:9:00~16:30
休業日:年中無休