日雇いバイトのコウモリ(あだ名)と日雇い先社員の石田さん(仮名)は固い主従関係で結ばれており、ある日コウモリは石田さんから大きな役目を帯びた紙切れを受け取ります。
石田「職場の彩香さん(日雇い)にオレの連絡先(紙切れ)を渡してくれ」
コウモリ「かしこまりました<(_ _)>」
1590年豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして関東の大勢力である小田原の北条氏への攻撃を敢行、秀吉は圧倒的な軍事力と物量作戦で、関東の北条氏の支城を次々と落とし、本城小田原城を3ヵ月にわたり包囲し降伏させました。
しかし秀吉臣下の石田三成が総大将で総勢23000人の軍勢をもって攻撃した小田原城支城の忍城(おしじょう:現埼玉県行田市)は落城させる事が出来ませんでした。
激しい水攻めにも耐えた忍城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」と称されます
〈目次〉
忍城址(読み方:おしじょうし)へのアクセスはJR高崎線「行田駅」東口からバス
秩父鉄道「行田市駅」南口から徒歩約15分ですが、熊谷駅から乗り換えの秩父鉄道は都心近郊からだと手間のかかるコース。
なので今回僕はJR高崎線「行田駅」東口から市内循環コミュニティーバスで訪問しました。
https://www.its-mo.com/bus/detail/市役所前[行田市]〔行田市コミュニティ〕/
ちなみにJR高崎線「吹上駅」北口から朝日バス「総合教育センター行き」忍城バス停下車すぐのルートもあります
バスの窓から水城公園が見えてくれば忍城址はすぐ近く、外堀の沼を埋め立てて公園や市役所が作られました。
行田市はほぼ全域が北の利根川と南の荒川に囲まれた低湿地帯で、土地の高低差がほとんどない平らな地形。
城の周囲に堤防を築いて水を流し城を水没させる水攻めを得意としていた豊臣秀吉が、文官で武功が少ない石田三成に水攻めで落城させるように命じたのは無理からぬ事だったのでしょう。
一方忍城城主の成田氏長は北条氏の援軍として小田原へ出向中、城主のいない忍城は「成田長親」を総大将として兵と領民約3700人で城に籠城し石田軍を迎え撃ちます。
終点の忍城バスターミナルから忍城址までは約350m、行田市産業文化会館の先にちらっと見える忍城御三階櫓は、城の形をした鉄筋コンクリート造りの博物館。
ちなみにコウモリは命令通り彩香さんに主君の連絡先を渡したのですが「つ‥ついでに僕のも…」とドサクサ紛れに自分の連絡先も渡した不忠の臣(>_<)
雨で髪の毛がペチャンコになるのが気になるらしく、降水確率30%でも傘を杖にして職場にやってくるコウモリ。
忍城址(行田市郷土博物館)の歴史と見どころ
近くまで来ると御三階櫓が見えなくなってしまいどこが入口だか戸惑ってしまいますが博物館のココが入口。(入場料:大人200円)
かつての藩校「進修館」の表門(だったと伝わっている)を移築復元した門、忍城の戦いは小田原城開城で秀吉に降伏した為、出向組の城主成田氏長が忍城に戻って籠城組を説得し開城させる事で戦いの幕がおります。
成田長親は忍城を豊臣軍に明け渡し、その後は成田氏長に同行し烏山藩士となりますが、氏長との諍いで藩を去って放浪の身となり晩年は尾張で隠居生活を送りました。
その後忍城は徳川家康が関東に入封し四男の松平忠吉が城主となり江戸時代を迎えます
【館内は一部撮影不可なエリアがあり】
江戸幕府老中だった阿部忠秋が城主の時代に城が整備され、その後松平忠堯が阿部氏に変わって城主に、幕末後は廃城で残念な事に構造物のほとんどが取り壊されてしまいました。
本丸はうっそうとした木立に囲まれていたが、現在の忍中学校あたりの二ノ丸には、城主の御殿が建てられていた。
土塁とその上の土塀に囲まれた水辺には、三階櫓棟・二重櫓2棟がそびえ忍藩10万石の威容を誇っていた。
そんな忍城の歴史をざっくりと解説するモニターは入場客に大人気
忍城の事だけで無く行田市の古代や近世について学ぶ事が出来る行田市郷土博物館、市の名産品である足袋と足袋蔵は「埼玉県で唯一日本遺産に登録」というスケールの小さい称号があります(´・ω・`)
スケールが小さくて人の足元を見ると言えば石田さん、一応は彩香さんから連絡はありましたが「人づてに連絡先を渡そうとする人は嫌い」と言われたそうです(x_x)
一方コウモリにも彩香さんからの連絡がありましたが「ドサクサ紛れに自分の連絡先を渡す人も嫌い」と言われたそうです(妄想)
公民館みたいな場所の階段を登ると御三階の建物は三階とか言っておきながら実際は4階建て石垣部分でプラス1階なのでしょう。
忍城と城下町(2階)
近世の忍城とその城下町や周辺の村々に暮らした人々の姿を生活用具や絵図などから紹介
石田三成は忍城の戦いの10年後に関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ斬首となりました
近・現代の行田(3階)
産業の発展や行政制度の変化や学校の移り変わりなどを通じて行田における近代化を紹介
敗戦の大きな要因は西軍(石田側)小早川秀秋の裏切りであった事は有名です
展望室(4階)
御三階櫓の最上階は四方の窓から行田の街並みを一望
ちなみにコウモリの座右の銘は「謀反を起こす」だそうです
1階に戻り埴輪を見ながら思うのは「忠誠を誓います」と言った矢先に相手方に寝返るコウモリはまるで小早川秀秋。
小田原開城しかし忍城は落ちず
何で城に埴輪なんだ?と思ってしまう人もいるかもですがここから3kmほど離れた場所に文字が入った鉄剣が出土した事で有名な「さきたま古墳公園」があり、園内には高さは2〜4mで幅は12mメートル程度だったと言われている石田堤の跡があります。
僕は忍城址から丸墓山古墳まで3kmの道のりを炎天下の中歩いて行きました。
石田三成は丸墓山古墳の頂上に陣を張ってそこから指揮をしていたそうです、10倍近い兵力がありながらも攻め落とす事が出来なかった石田三成と、攻撃を跳ね返した成田長親をはじめとする忍城守備陣。その時の史実を元にした小説とそれを映画化した「のぼうの城」が2012年に大ヒット。
豊臣秀吉は堤防を作る大規模な土木工事を見せつける事によって、自らの威厳を示す意味合いもある水攻めを石田三成に命じ総延長が28kmにも及ぶ堤を5日ほどで完成、しかし堤が長ければ長いほど破壊工作に対する監視が大変になり、結果忍城側の決死隊により夜中に堤防を破壊され石田陣営は水浸しとなって水攻めは失敗。
攻めあぐねる石田軍に浅野長政・真田昌幸(幸村の父)が援軍に駆けつけ今度は力攻めの総攻撃、忍城側は城壁を背にして退路を断ち、決死の覚悟で石田隊を迎え撃ちます。
いくら兵力に圧倒的な差があるとはいえ、局地戦の城攻めにおいて士気が高い相手に真正面攻撃をした石田三成の下策は、これまた城を攻め落とす事が出来ません。
小田原城が落城し忍城を明け渡すことを決定した成田長親、関東では忍城以外の城は全て落城しており、城主の氏長が秀吉に従った以上は戦いを続ける大義名分も無く、兵士と領民は城を退去して解散します。
この戦いで戦下手の烙印を押されてしまった石田三成は、10年後の関ヶ原の戦いでも小早川秀秋をはじめ味方からそれなりに裏切られてしまい敗北後に斬首、戦下手は石田三成で連絡先渡し下手は石田社員なのです。
そして不忠の臣コウモリは石田堤跡を歩くカップルを追いかけ「つ‥ついでに僕の連絡先も…」
行田市郷土博物館
住所:行田市本丸17-23
電話:048-554-5911
H.P.:https://www.gyoda-kankoukyoukai.jp/spot/530
営業時間:9:00~16:30
定休日:月曜日(祝日・休日の場合は開館)/祝日の翌日(土日の場合は開館)/毎月第4金曜日(企画展中の場合は開館)/年末年始
入場料:大人200円